イトウの経営Column

2100食の赤飯が問いかけるもの〜「受け止めて受け流す」という覚悟

たった1本の電話で消えた2,100食

東日本大震災から15年を迎えた3月11日、いわき市の小中学校で提供されるはずだった赤飯2,100食が直前で廃棄されたというニュースがありました。それは「追悼の日に祝い膳である赤飯は不適切ではないか」という、保護者からの電話がきっかけでした。

11日午前、1人の保護者から「震災のあった日に赤飯はおかしい」と電話があったことから、市教育委員会の判断で提供が取りやめられ、生徒たちには学校で備蓄した非常用の缶詰パンが出された。その結果、調理済みであった約2,100食の赤飯が廃棄された、とのことです。

いわき市長もこの判断に対し、「約2100食分破棄は、もったいないと感じています」とX上でコメントしています。

電話をした保護者は、後に「廃棄」までは求めていなかったと説明しているとのことです。行政側の「過剰な反応」が、本来喜ぶはずだった子どもたちの笑顔と、貴重な食料を奪う結果となりました。

これ、どうしたらよかったんでしょうか?

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「100か0か」の強迫観念と、キャンセルカルチャーの影

SNSの普及により、個人の声が可視化されやすくなりました。本来、1件のクレームは「1/2100」の意見に過ぎないはずですが、今の時代、その1件がSNSで拡散されれば「組織全体の不祥事」として着火するリスクがあります。 担当者の頭の中では、「1人の不快感 = 全市民の怒り = 全国的な炎上」という、極端な飛躍が起きてしまっているのかもしれません。

「誰一人傷つけない、不快にさせない」という無謬性を求める姿勢は、一見誠実に見えますが、実は非常に非現実的です。 今回の赤飯の件でいえば、「不謹慎だ」という批判を避けるために「廃棄」を選んだ結果、「食べ物を粗末にするな」という別の角度からの猛批判を浴びることになりました。無謬性を求めて一方の批判を封じようとすると、必ず別の場所で「穴」が開くのが、今の社会の難しさです。

「誰かに反対されたら止める」というルールは、判断を下す側にとっては「楽」なルールでもあります。自分の信念や施策の意義を説明するコストをかけず、「批判があったからやめました」と言えば、一時の責任からは逃げられるからです。 しかし、これは「配慮」ではなく「逃避」です。この一足飛びの決断が重なることで、社会から多様性や寛容さが失われ、どんどん息苦しい「正解探し」のゲームになっていく危うさを感じます。

そもそも100%の賛同を得ることは不可能です。むしろ、100%の人に好かれようとする施策は、誰の心にも刺さらない無難で魅力のないものになりがちです。

大切なのは「批判をゼロにすること」ではなく、「なぜこの施策を行うのか」という揺るぎない軸を持つことでした。

過剰な忖度が「真の顧客」を失望させる

問題の本質は、少数の抗議を過大に評価し、方針を根底から覆してしまったことにあります。

抗議を受けた際、担当者は「批判された」という事実に怯え、本来守るべき対象である「給食を楽しみにしていた子どもたち」の存在を忘れてしまいました。想定外の意見に耳を傾けることは大切ですが、それに引きずられて方針をぶらしてしまうと、「よかったのに」と好意的に受け止めていた大多数のサイレント・マジョリティをも手放すことになります。

今回の「廃棄」という決断は、結果として「食べ物を大切にする」という教育的配慮すら欠いた、新たな問題を引き起こしてしまいました。

今、求められる「受け止めて受け流す勇気」

ここで必要だったのは、批判を無視することではなく、「受け止めて、受け流す勇気」です。あるいは、「覚悟」と言い換えてもいいかもしれません。

  • 受け止める: 「そのようなご意見があることは真摯に受け止めます」と、相手の感情を否定せずに聞き入れる。
  • 受け流す: 「しかし、私たちは『震災を乗り越え成長する子どもたちを励ます』という目的でこれを選択しました」と、自分たちの軸に戻り、過剰な要求には応じない。

この「受け流す」というステップがあって初めて、施策はその本来の目的を果たすことができます。

赤飯は「祝い事だけの料理」なのか? 3.11給食で「2100食 …

こちらの記事によると、本来、赤飯というのはハレの日のみならず、仏事などさまざまな場面で、人々の思いを込めて食べられてきたということだそうで、批判自体が的外れだったということもできました。「受け流す」ことが十分に選択できた批判だったと言えます。

集団浅慮を避ける〜軸を守るための「強さ」

おそらく、1本の連絡を受けて、教育委員会が急遽話し合うことで結論を決めてしまったことは一種の集団浅慮(集団思考・グループシンク)なのだろうとおもいます。

批判を恐れるあまり、最大級の対応(今回でいえば中止・廃棄)を先回りして取ってしまうのは、責任感ではなく「思考停止」です。

すべての声に応えようとして、結局誰のためにもならない結果を招く。炎上を避けるために、結局炎上を招く。そんな悲劇を繰り返さないためには、批判の嵐の中で「自分たちは誰のために、何を提供したいのか」という原点に立ち返る強さが求められています。

2,100食の赤飯が私たちに教えてくれるのは、配慮という名に隠れた「臆病」を打ち破るための、確かな覚悟の必要性ではないでしょうか。

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