【判例解説】海外留学後に退職した社員に対して留学費用の返還を求めることは可能?【社外研修費用の返還請求と賃金との相殺の可否】
政府は教育未来創造会議において、2033年までの留学生に関する目標として、外国人留学生を40万人受け入れ、日本人留学生を50万人送り出すことを掲げています。
昨今、経済的な理由や語学の問題などを理由として、外国留学を希望しない若者が増加する傾向にあります。
しかし、深刻な少子高齢化の中で、日本は外国人労働者を受け入れて、人材を確保しようと動きを進めています。
外国人労働者を受け入れる土壌を作っていくためには、やはり受け身となって外国人が日本に来てくれることを待つだけでなく、積極的に日本からも当該地に赴き、語学や文化的背景などを学んでおくことも大切であると考えられます。
さて、そんな海外留学をめぐり、会社が、社外研修制度を利用して海外留学をしたものの、帰国後に退職した従業員について、賃金と留学費用を相殺したところ、当該元従業員から訴えられるという事件がありました。
大成建設事件・東京地裁令和4.4.20判決
事案の概要
Aさんと被告B社の関係
Aさんは、平成21年4月1日、建設工事、土木工事、機器装置の設置工事その他建設工事全般に関する企画、測量、設計、施工、管理等を目的とするB社に総合職として雇用されました。
B社の留学制度
B社では、人材育成の観点から、希望する社員を国内外の大学等に一定期間派遣する社外研修制度を設けており、この制度は、社外研修規程及び社外研修規程取扱細則に基づいて実施されていました。
社外研修規程第10条では、
一 社外研修生は、研修期間中又は復職後満5年以内に、就業規則32条2号若しくは4号に該当し退職する場合、または論旨解雇若しくは懲戒解雇に処せられた場合、貸与金を退職日または解雇日までに全額返還しなければならない。
二 社外研修生が、就業規則32条各号(2号及び4号を除く)に該当し退職するとき又は復職後満5年経過したときは、貸与金の返還義務を免除する。
との定めがありました。
また、社外研修規程別紙の「社外研修に関する誓約書」では、
四 今回の研修にあたり貸与される社外研修費用の返済について、会社から社外研修規程10条及び社外研修規程取扱細則3条に関する説明を受けました。
これらの内容についてすべて了解いたします。
五 万が一、社外研修規程10条1項に該当し、社外研修に伴う貸与金を全額返済する事態になった場合、会社が、私が会社から支給される給与、賞与、経過賞与、退職金等、私が会社に対して有する債権と相殺しても異議を申立てません。
との記載がありました。
P部門における海外研修の取り扱い
Aさんが所属するP本部P1部では、平成28年10月27日付「P1部門 海外研修要領」に基づいて、海外研修機関に同部門の職員を派遣することとし、同要領所定の資格を有する社員に対して希望者を募りました。
本件研修要領では、海外研修制度は、国内においては習得できない知識や技術等を習得させ、海外での人材交流等を経験させることによって、将来的に増加すると想定される海外事業において、設計・施工に関して顧客等との交流ができる人材を育成するために、
✔海外の大学・大学院・企業等の研修機関にP1部門内の職員を派遣するものであり、海外研修先は、原則として研修生自らがテーマを選定し、自らが研修準備等を進めることが必要となる大学院とし、学位を取得することを目的とすること
✔海外研修費用のうち、会社負担費用及び会社貸与金はP本部が負担すること
✔海外研修生への給付、海外研修費用の負担等の海外研修における諸条件については、社外研修規程ならび社外研修規程取扱細則に従うこと
などが定められていました。
Aさんの留学
Aさんは、平成29年1月20日、プロジェクトマネジメントを研修テーマとして、社外研修に応募しました。
Aさんは、規程等に基づく選考を経て、平成30年5月11日、社外研修生となることが正式に決定しました。
Aさんは、同月21日、海外研修規程別紙の「社外研修に関する誓約書」に署名押印し、これをP本部の総務担当者に提出しました。
Aさんは、自身の社外研修の開始まで、本件誓約書における貸与金や相殺に関する記載について異議を述べることはなく、これに関する説明を求めることもありませんでした。
その後、平成30年6月28日、Aさんは、米国に渡航し、語学学校に通った後、同年9月、N大学に入学し、令和2年5月に同研修校の修士課程を修了しました。
留学後のAさんの退職
本件研修を終えたAさんの復職日は、令和2年6月1日とされました。
ところが、Aさんは、令和2年5月28日、同年6月30日をもってB社を退職する旨を願い出たため、同月8日、B社はこれを承認しました。なお、AさんはB社に対して、令和2年6月分賞与、同月分賃金、退職一時金、共済会退職一時給付金、立替金の債権を有していました。
訴えの提起
その後、Aさんは、B社に対して、上記各債権について支払いを求める訴えを提起しました。
これに対して、B社は、社外研修に要した費用はB社がAさんに貸与したものであり、Aさんとの相殺合意に基づき、研修費用の返還請求権とAさんのB社に対する賃金等の請求権とを相殺したと主張し、Aさんに対し、消費貸借契約に基づいて、相殺後の研修費用の残額の支払いを求める反訴を提起しました。
争点
本件では
①AさんとB社との間で、社外研修規程取扱細則第3条1項所定の研修費用について、B社がAさんに対して貸与する旨の消費貸借契約(本件消費貸借契約)が成立したといえるか
②本件消費貸借契約が労働基準法第16条に反するか
③AさんとB社との間で、本件消費貸借契約に基づく貸金返還請求権及び利息請求権とAさんがB社に対して有する債権とを相殺するとの合意(本件相殺合意)が労働基準法第24条1項本文に反するか
が争点となりました。
労働基準法
第16条(賠償予定の禁止)
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
第24条(賃金の支払)
一 賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。(以下、略)
本判決の要旨
争点①AさんとB社との間で本件消費貸借契約が成立したか
本件誓約書や社外研修規程等の記載内容
Aさんは、本件誓約書に署名押印してこれをB社に提出したところ、本件誓約書には、社外研修規程(規程)10条及び社外研修規程取扱細則(細則)3条に関する説明をB社から受け、これらの内容を全て了承した旨が記載されている。
そして、規程10条には、社外研修生は、研修期間中又は復職後満5年以内に、就業規則32条2号若しくは4号に該当し退職する場合、又は諭旨解雇若しくは懲戒解雇に処せられた場合、貸与金を退職日又は解雇日までに全額返済しなければならないと規定され、返済義務が生じる場合が特定されている。
また、貸与金の具体的な内容については、規程9条2項による委任を受けた細則において定められているところ、その内容に不明確な点はなく、消費貸借の目的の特定に欠けるところもない。
Aさんの対応
Aさんは、自ら規程や細則等をイントラネットから印刷し、Qさんに対し、複数回にわたって、規程や細則に定められた細目的な事項に関連する質問をしたり、誓約書のひな型が規程の別紙として定められていることを教えたりしていたこと、本件誓約書における貸与金や相殺に関する記載について異議を述べることも説明を求めることもなかったことからすれば、Aさんは、本件誓約書の提出に当たって、規程及び細則並びに本件誓約書に記載された内容を十分に理解した上で、本件誓約書に署名押印したと認めるのが相当である。
小括
したがって、AさんとB社との間においては、本件誓約書の提出をもって本件消費貸借契約が成立したと認められる。
争点②本件消費貸借契約が労基法16条に反するか
判断枠組み
労基法16条が、使用者に対し、労働契約の不履行について違約金を定め又は損害賠償額を予定する契約の締結を禁じている趣旨は、労働者の自由意思を不当に拘束して労働契約関係の継続を強要することを防止しようとした点にあると解される。
したがって、本件消費貸借契約が労基法16条に反するか否かは、本件消費貸借契約が労働契約関係の継続を強要するものであるか否かによって判断するのが相当である。
本件の検討
➣本件研修は、応募や辞退、研修テーマ・研修機関・履修科目の選定がAさんの意思に委ねられていたこと
本件についてこれをみると、B社における社外研修制度の下では、応募・辞退は任意であると定められており、Aさんも、陸上設計室長らの勧めがあったとはいえ、自らの意思で本件研修への参加を決意したものであって、本件研修に参加するよう、強制されたり、指示されたりしたものではない。
また、Aさんは、本件研修要領が定める目的に沿うように、研修テーマを自ら選定したのであって、研修テーマについて陸上設計室長らの指示を受けたものではない。
そして、Aさんは、研修機関について、上長から具体的なアドバイスを受けたことはなく、自ら選定した大学を受験し、履修科目についても、自ら選択したものである。
さらに、本件研修は、令和元年8月までの予定であったところ、同年5月に同年8月までに修士課程を修了することが困難であることが判明したとして研修期間の延長を希望したのはAさんであり、延長に難色を示した上長と調整の結果、研修期間の延長が実現したものである。
➣本件研修は、汎用性が高い内容を多く含むものであり、Aさん個人の利益に資する程度が大きいこと
次に、Aさんが本件研修において履修した科目には、インフラストラクチャーシステムマネジメントや、ビルディングインフォーメーションモデリングなど、建設業を営む被告における業務と関連性を有する内容が含まれるものの、会計基礎論やファイナンス基礎論、オーラルコミュニケーション、法律・紛争解決・交渉などの汎用性が高いと考えられる科目も多く含まれる。
そして、Aさんが、本件研修を通じて、本件研修校において、別紙履修科目一覧記載の各科目を履修し、修士課程を修了したことは、Aさんのキャリア形成に有益であることは否定し難く、本件研修は、B社以外での勤務において通用する知識、経験や資格の獲得に寄与したというべきである。
➣貸与金の返済免除に関する基準が不合理とはいえず、返済額が不当に高額であるとまではいえないこと
また、本件消費貸借契約は、労働契約とは別に、書面により締結されたものであり、その詳細は規程及び規則に定められているところ、本件消費貸借契約に基づく貸金返還債務は、社員の申し出による合意退職、休職期間の満了、諭旨解雇又は懲戒解雇の事由がない限り、復職後5年を経過した時点で免除される(規程10条2項)のであるから、免除までの期間が不当に長いとはいえず、免除の基準が不合理であると評価することもできない。
そして、本件消費貸借契約に基づき返還すべき本件研修費用の金額(前記前提事実(3)キ)は、米国の大学における修士課程の修了に要する授業料や教材費、住居費等の合計額として、本件研修への応募や延長を申し出た時点で十分に予測し得る範囲にとどまっているといえるし、Aさんの収入額に照らしても、返還を求めることが不当に高額であるとまではいえない。
小括
以上のとおり、ア 本件研修は、応募や辞退、研修テーマ・研修機関・履修科目の選定がAさんの意思に委ねられていたこと、イ 本件研修は、汎用性が高い内容を多く含むものであり、Aさん個人の利益に資する程度が大きいこと、ウ 貸与金の返済免除に関する基準が不合理とはいえず、返済額が不当に高額であるとまではいえないことからすると、本件消費貸借契約が労働契約関係の継続を強要するものであるとは認められない。
したがって、本件消費貸借契約は労基法16条に違反するとはいえない。
争点③本件相殺合意が労基法24条1項本文に反するか
判断枠組み
労基法24条1項本文は使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止するものであるところ、労働者がその自由な意思に基づき相殺に同意した場合においては、その同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、その同意に基づく相殺は労基法24条1項本文に違反するものとはいえないものと解するのが相当である(最高裁平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁)。
本件の検討
➣Aさんの利益
本件研修は、Aさんが自らの意思で応募したものであり、研修テーマ・研修機関・履修科目もAさんが自ら選定したものである。
また、本件研修はB社以外での勤務において通用する知識、経験や資格の獲得に寄与するものである上、本件相殺合意の対象となる貸与金の返済義務は、諭旨解雇若しくは懲戒解雇又は休職期間満了の場合を除き、Aさんが自ら退職を申し出ない限り、復職後満5年の経過をもって免除されることが約されていることからすれば、本件研修費用の貸与を受けられることによるAさんの利益は大きいということができる。
➣B社からの情報提供
さらに、貸与金の具体的な内容は、規程9条2項の委任を受けた細則において定められており、不明確な点はない上、本件相殺合意の内容は、B社のAさんに対する貸与金返還請求権及び利息請求権とAさんのB社に対する債権とを相殺するという簡明なものである。
また、B社は、本件誓約書のひな型を含め、規程及び細則をイントラネットに掲示していたほか、その重要な部分を本件研修要領にも記載するなどして、本件消費貸借契約及び本件相殺合意の内容をあらかじめ情報提供するとともに、不明な点があればQさんに質問する機会を与えていた。
そして、Aさんが示していた言動からすれば、Aさんが本件誓約書の内容を含む規程及び細則の詳細について理解していたことは明らかであって、口頭による説明が重ねてされなかったとしても本件相殺合意の内容について十分な情報提供がされていたということができる。
小括
Aさんは、貸与金や相殺について何ら異議を述べることもなく、本件誓約書に署名押印してこれをB社に提出したのであるから、本件相殺合意は、Aさんの自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在すると認められる。
したがって、本件相殺合意は労基法24条1項本文に反しない。
結論
以上によれば、B社は、Aさんに対し、本件消費貸借契約に基づき、本件研修費用の返還請求権を有しているところ、AさんのB社に対する本訴請求債権は、本件相殺合意に基づく相殺により、いずれも消滅した。
よって、Aさんの賃金等の支払いを求める本訴請求はいずれも理由がないからこれらを棄却し、B社の本件研修費用の返還等を求める反訴請求は理由があるからこれを認容すると判断されました。
解説
本件事案のおさらい
本件は、社外研修制度を利用して海外留学へ赴き、帰国後にB社を退職した元社員のAさんが、同社に対して、研修費用と相殺されてしまった賞与などの支払いを求めたのに対し、B社がAさんに対し、相殺後の研修費用の残額の支払いを請求したという事案でした。
裁判では、①AさんとB社との間で研修費用をB社がAさんに対して貸与する旨の消費貸借契約が成立していたといえるか否か、②このような消費貸借契約が労働基準法16条に違反するか否か、③B社のAさんに対する研修費用等の返還請求権とAさんのB社に対する賞与等の請求権とを相殺するという合意が労働基準法24条1項本文に違反するか否かが争われました。
そして、本判決は、①の点について、本件誓約書や社外研修規程等の記載内容、Aさんの対応などに着目しながら、AさんとB社との間で研修費用をB社がAさんに対して貸与する旨の消費貸借契約が成立していたと判断しました。
また、②、③の点についても、労働基準法の各規定に違反することはなく、相殺後の研修費用の残額の支払いを求めるB社の請求が認められると判断されました。
問題の所在
本件において最も注目すべき問題は、B社がAさんに対して研修費用を貸与するとの消費貸借契約が労働基準法16条に違反するか否か(争点②)という点です。
社外研修や留学などの制度を設けている企業の中には、労働者に対して、研修のためにかかる費用を貸付け、研修後に一定期間勤務をした場合には、当該研修費用の返還義務を免除するという仕組み構築している場合があります。
このような仕組みは、一見すると企業と労働者との間の一般的な消費貸借契約のようにみえるため、なぜ「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」という労働基準法16条の問題になるのか分からないという方もいるかもしれません。
しかし、研修費用の返還等に関する定めが、使用者と労働者間の労働契約とは全く無関係の消費貸借契約ではなく、当該労働契約と結びつけた違約金・損害賠償額の予定であるとして労働基準法16条に違反すると解される場合もあります。
ポイント
では、どのような場合に労働基準法16条違反と解されるのでしょうか。
この点、本判決は、同条の趣旨が「労働者の自由意思を不当に拘束して労働契約関係の継続を強要することを防止しようとした点」にあることに鑑み、研修費用を貸与するとの消費貸借契約が、当該労働者に対して、労働契約関係の継続を強要するものであるか否かによって判断するのが相当であるとしています。
これまでの判例においても、労働基準法16条違反の有無は、労働者の自由意思を不当に拘束し、労働関係の継続を強要するものであるか否かにより判断されており、具体的には、
✔労働者が自由意思に基づいて研修に参加したものであるか
✔業務との関連性が認められるか、労働者個人の一般的な能力を高めるものであるか
✔費用債務免除に必要な契約期間や返済額などの基準に合理性が認められるか
などの点が考慮要素となっています。
本判決では、①本件研修は、応募や辞退、研修テーマ・研修機関・履修科目の選定がAさんの意思に委ねられていたこと、②本件研修は、汎用性が高い内容を多く含むものであり、Aさん個人の利益に資する程度が大きいこと、③貸与金の返済免除に関する基準が不合理とはいえず、返済額が不当に高額であるとまではいえないことが指摘されており、上記各要素を念頭においた判断がなされているといえます。
日頃からの顧問弁護士への相談を
会社が従業員の留学費用や研修費用を負担する大きな理由の一つは、当該従業員に社外で得た知識や技術等を習得させ、また、普段の業務では経験のできない体験をさせることによって、いずれ復職した際に、会社の戦力となる人材になってほしいという期待があるからです。
特に海外留学となれば莫大な費用がかかるため、留学を終えて復職した途端に辞職してしまうなどといった事態は避けたいところです。
しかし、本件において争われたとおり、規程や条項の定め方などによっては、社外研修費用の返還を求めることが労働基準法16条などに違反すると判断されてしまう可能性もあり、慎重な判断が求められます。
日頃から顧問弁護士に相談し、社外研修費用に関するルールや仕組みに問題がないか否か確認しておくことがよいでしょう。