イトウの経営Column

「無料」はホントにお客さまのため? とある弁護士会騒動にみる「ニーズ過剰適応」

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はじめに:善意が生む「市場の壊死」

最近、弁護士業界であるニュースが波紋を広げました。某弁護士会の次期会長が、「無料法律相談のニーズは高い。社会の重要なインフラとして充実させていきたい」と語ったことがきっかけです。

滋賀弁護士会長に遠藤氏 東京生まれ 司法修習の地で弁護活動

一見すると、困っている人に寄り添う素晴らしい理念に聞こえます。しかし、X上では、弁護士たちから悲鳴にも似た批判が相次ぎました。特に、業界のトップがこれを言ったことに。なぜでしょうか?

今回は、ビジネスの根幹を揺るがす「ニーズへの過剰適応」と、一度陥ると抜け出せない「イノベーションのジレンマ」の罠についてのお話です。


「無料」という劇薬の歴史:先行投資からデフレへ

もともと法律相談は、専門知識を切り売りするプロの「商品」でした。無料相談は極めて限定的なものでしたが、その潮流を変えたのが2000年代初頭の「過払い金バブル」です。

多くの弁護士が、高額な報酬が見込める過払い金案件を「集客」するために、入り口としての相談料を無料にしました。いわば、「その後の受任で元を取る」ための先行投資(ロスリーダー戦略)です。

さらにその後、公的な「法テラス」の設立がこの流れを加速させました。その結果、消費者の心には「法律相談=タダで受けられるもの」という認識が定着してしまったのです。一度下がった価格の期待値を上げるのは、至難の業です。

イノベーションのジレンマ:ニーズに応えるほど疲弊する

この構図、名著「イノベーションのジレンマ」(クレイトン・クリステンセン著)が思い出されます。 既存の顧客(または社会)の「もっと安く、もっと手軽に」という要望に誠実に応え続けることは、短期的には正解に見えます。しかし、それはプロとしての専門性を「コモディティ化(汎用品化)」させる道でもあります。

  • 正当な対価の喪失: 1時間の相談に命を削って回答しても1円も生まれない。この構造が続けば、事務所は維持できず、優秀な人材は業界を去ります。
  • 「インフラ」の皮肉: 「社会インフラ」として無料化を推進すればするほど、民間の供給能力は削がれ、結局はサービスの質が低下し、本当に救われるべき人が救われない「インフラの崩壊」を招きます。

顧客の「無料がいい」という声は、実はその業界の未来の破壊と同義なのです。

経営者が持つべき「独断と偏見」:プロのプライド

そりゃあ、「無料法律相談」のニーズは高いでしょうよ。レストランで無料の食事、ホテルで無料の宿泊の「ニーズ」が高いのと同様に。しかし、個々の事業者としては、サービスの提供を維持していく義務があります。従業員に対して正当な労働の対価を支払う義務があります。

市場や社会のニーズを無視することは怖いかもしれません。しかし、我々に今求められているのは、空気を読んだ「調整」ではなく、プロとしての価値を死守する「独断と偏見」ではないでしょうか。

  • 「価値の安売りは、顧客への裏切りである」
  • 「持続可能な対価を得られない仕事は、社会貢献ではない」

こうした強い意志こそが、崩壊する市場に歯止めをかけます。 例えば、あえて「相談料は高いが、それ以上の価値を出す」と言い切る。あるいは、無料相談という「入り口の広さ」ではなく、専門特化した「技術の深さ」で勝負する。これらはすべて、データや世論からは導き出せない、経営者の「主観」による決断です。


誰のための「インフラ」か

「無料」を一概に否定する訳ではありません。私たちも、無料のセミナーを実施していますし、経営戦略として十分取りうるものです。

しかし、業界団体のトップが無料サービスを打ち出すのは意味が異なります。「ニーズがあるから応える」というのは、一側面に過ぎません。

滋賀弁護士会(あ、言ってしまった)の騒動は、決して他人事ではありません。 あなたの業界でも、お客様の「もっと安く、もっと便利に」という声に引きずられて、自分たちの専門性や誇りをドブに捨ててはいないでしょうか?

健全な市場の発展には、「良いサービスには、相応の対価が必要である」という冷徹な論理が必要です。それを守れるのは、現場のニーズに流されない、経営者自身の「独断」だけなのです。

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