退職手当との相殺はできる?【独立行政法人国立病院機構事件】
- 川崎市で病院を経営しています。病院のスタッフが借金に困っているとのことで、このたび給料の差押命令の通知が届きました。スタッフとの間で今後退職時に支給される退職金をもって全額相殺できるのであれば、代わりに立て替えて払って上げたいと考えています。可能でしょうか?
- 使用者と労働者の間で自由な意思に基づいて相殺の合意をした場合は、将来、退職金から立替金相当額を相殺することは可能です。「自由な意思に基づいて」といえるためには、その立て替えに至った事情や相殺合意自体の内容などを総合的に考慮することになります。合意書面を作ることはもちろん、「自由な意思に基づいて」といえるだけの内容にしておく必要があります。詳しくは弁護士にご相談ください。
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雇用契約において使用者が負う最も大きな義務の一つに賃金の支払いがあります。
そして、賃金の支払いには5つのルールがあります(労基法24条)。
①通貨払いの原則 | 賃金は通貨で支払わなければなりません |
②直接払いの原則 | 賃金は直接支払わなければなりません |
③全額払いの原則 | 賃金は全額支払わなければなりません |
④毎月1回以上払いの原則 | 賃金は毎月1回以上支払わなければなりません |
⑤一定期日払いの原則 | 賃金は一定期日を定めて支払わなければなりません |
ここでいう賃金とは、給料、手当、賞与その他の「名称のいかん問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう」とされています(労基法11条)。
そのため、たとえば退職金や退職手当についても、上記の賃金の支払いに関する5つの原則のルールが適用されます。
さて、今回はそんな退職手当の相殺が許されるか否かが問題になった事案をご紹介します。
独立行政法人国立病院機構事件・東京地裁令和2.10.28判決
事案の概要
本件は、Yに医師として雇用されていたXさんが、Yに対し、退職手当を対象とする相殺は労基法24条1項に違反するなどと主張して、退職手当未払分の支払いなどを求めた事案です。
事実の経過
Xさんの勤務
Yは、医療の提供、医療に関する調査及び研究並びに技術者の研修等の業務を行うことを目的として、独立行政法人国立病院機構法に基づき、平成16年4月に設立された独立行政法人であり、広島県福山市所在の国立病院機構Aセンターを含む全国141病院の運営をしていました。
Xさんは、平成19年4月1日、Yを雇用主として労働契約を締結し、同日からAセンターの副院長(医師)として職務に従事し、平成25年4月1日から同センターの院長となりました。
差押命令とYの支払い
ところで、Xさんは、YのAセンターにおいて勤務していた平成20年3月14日、本件差押命令により、XさんのYに対する給与債権等を差し押さえられました。
Yは、本件差押命令に基づき、債権者Bに対して、Xさんに対する平成20年5月分から平成28年9月分の給与のうち、差押債権額を支払いました。
取立訴訟の提起とYの支払い
もっとも、平成28年10月頃、Aセンターの院長であったXさんは、本件差押命令に基づくYのBに対する支払いを停止させました。
そこで、債権者Bは、平成30年1月、Yに対し、XさんのYに対する平成28年10月分ないし平成30年4月分の給与債権について取立訴訟(東京地方裁判所平成30年(ワ)第554号・別件取立訴訟)を提起しました。
同訴訟において、平成30年5月9日、Yが債権者Bに対して1425万2293円を支払うことを命ずる判決が言い渡され、これが確定しました。
そして、Yは、平成30年5月31日までに、債権者Bに対して1425万2293円を、別件取立訴訟の弁護士費用として117万7384円を支払いました。
YからXへの支払いの求め
Yは、平成30年6月1日頃、Xさんに対し、別件取立訴訟の認容額と弁護士費用を支払うよう求めました。
これに対し、Xさんは、他の訴訟を抱えているし、Xさんは別件取立訴訟の当事者ではないので、支払う段階でもないし、義務もない旨の回答をしました。
そこで、Yは、平成30年6月29日頃、Xさんに対して、支払わなければ措置を講じること、同年7月2日から4日の間で、上京しなければ措置を講じる旨を通知しました。
面談の実施
Xさんは、平成30年7月3日、東京都所在のYの事務所を訪れ、Yの理事長であるC及び副理事長であるDと面談(本件面談)を実施しました。
C理事長は、Xさんに対し、本件面談において、別件取立訴訟の判決を受け、Yが支払いをしたため、これをXさんに返済してもらわなければならない、Xさんの方で、何か考えている返済方法があるかという趣旨の質問をしたところ、Xさんは、給与の差押えを実行されている段階であり、一気に返すのは不可能であるから、Yから色々と提案をしてもらいたい旨回答をしました。
相殺にかかる合意書
そこで、C理事長は、Xさんに対し、「我々の方も、それなりに色々考えまして。」、「先生おっしゃたように、現状において、すぐにとか、月々にというのは、なかなか難しいと思いますので、一つのご提案といたしまして、退職時に退職金が出ました場合には、そっから今回1500万円までの部分を差し引かせていただくということで。それはどうかということを、今」などと言ったところ、Xさんは、直ちに「そうしていただければ」などと応答しました。
C理事長は、Xさんに対し「差し出がましいですけれども、一度、それに関しても、合意書っていうものを。」などといって債務弁済合意書(本件合意書)を差し出し、Xさんは、これに署名押印しました。
本件合意書には、概ね以下のとおりの記載がありました。
Xさんに対する懲戒処分
そして、Xさんは、平成30年7月頃、Yから戒告の懲戒処分を受けました。
Xさんの定年退職
その後、Xさんは、平成31年3月31日、Yを定年退職しました。
退職手当の支給通知
YがXさんに対して支給すべき退職手当総額は、4290万5646円でした。
そこで、Yは、Xさんに対し、退職手当として同額を支給する旨の人事異動通知書(本件通知書)を交付しました。
退職手当の控除と支給
その後、Yは、Xさんに対し、令和元年5月31日までに、本件退職手当総額4290万5646円から下記の金額を控除した741万1354円を支払いました。
所得税 | 325万516円 |
住民税 | 143万0100円 |
債権差押命令に基づく弁済額 | 955万6257円 |
厚生労働省第二共済組合貸付金弁済額 | 582万7742円 |
債務弁済合意書に基づく相殺額 | 1542万9677円 |
訴えの提起
これに対して、Xさんは、退職手当を対象とする相殺は労基法24条1項に違反するなどと主張して、Yに対し、退職手当未払分の支払いを求める訴えを提起しました。
争点
本件では
①本件退職手当から本件差押命令に基づき差し押さえられた955万6257円を控除することが許されるか?
②本件合意書に基づく相殺合意は許されるか?
が争点となりました。
本判決の要旨
争点①本件退職手当から本件差押命令に基づき差し押さえられた955万6257円を控除することが許されるか否かについて
まず、本件退職手当から本件差押命令に基づき差し押さえられた955万6257円を控除したことについて、裁判所は、「本件差押命令に基づき、本件退職手当の4分の1の額(955万6257円)が差し押さえられているのであるから、第三債務者であるYが、本件退職手当からこれを控除して支払うことに何ら違法性はない。」として、Xさんの主張は認められないと判断しました。
争点②本件合意書に基づく相殺合意が許されるか否かについて
労使間において相殺合意をすることができるか
次に、使用者と労働者が相殺合意をすることが、労基法24条に違反するか否かについては、その合意が労働者の真の意思に基づく限り、労働者の同意を得た上で行った相殺は、労基法24条に違反するものではない、との判断枠組みを示しました。
「労基法24条1項本文の定めるいわゆる賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするものというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものであるが、労働者がその自由な意思に基づき相殺に同意した場合においては、その同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、その同意を得てした相殺は同規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である(最高裁平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁参照)。」
本件合意書は有効に成立しているか
その上で、裁判所は、本件合意書の作成経緯や内容に照らして考えれば、本件相殺合意は、Xさんの同意を得てなされたものであり、Xさんの自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在していたとして、本件合意書は有効であると判断しました。
「そこで検討すると、前記認定事実によれば、Aセンターの院長の地位にあったXさんが、本件差押命令に基づく支払を停止したことにより、Yは、別件取立訴訟を提起され、本来Xさんが負担すべきである約1425万円もの多額の金銭の支払いを余儀なくされたことから、C理事長は、本件面談の際に、Xさんに対し、返済方法について質問したところ、Xさんが、一括での返済が不可能であるためYから色々と提案して欲しいなどと述べたのに対し、C理事長は、丁寧な口調で本件退職手当から控除する旨提案し、Xさんは、特段、躊躇したり、質問したりすることなく、これに応じ、本件合意書に署名押印しているのであって、本件合意書の作成過程において、強要にわたるような事情はうかがえない。
また、本件相殺合意をすることは、Xさんとしても、定年退職までの約9か月間、Yに対する支払いを猶予してもらえるという利点があるし、返済の有無及び方法はXさんに対する懲戒処分の軽重に影響しうる事情であると考えられるのであるから、本件相殺合意をすることが、Xさんの一方的な不利益になるということもできない。
さらに、本件合意書においては、本件退職手当から法定控除及び差押命令に基づく弁済額の合計額を差し引いた残額を相殺の対象とすることが明示されているなど、合意の内容に不明確なところはない。
以上によれば、本件相殺合意は、Xさんの同意を得てなされたものであり、その同意は、Xさんの自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在していたものというべきである。
したがって、本件相殺合意は、労働基準法24条1項に違反するものではなく、また他の労基法違反を認める事由もないから、労基法13条により無効となるものではなく、Xさんの主張には理由がない。」
結論
よって、裁判所は、本件相殺合意は有効に成立していることから、Yが、本件退職手当から、1542万9677円を控除することは適法であるとして、Xさんの請求は認められないと判断しました。
解説
本件事案のおさらい
本件は、Yに医師として雇用されていたXさんが、Yに対し、退職手当を対象とする相殺は労基法24条1項に違反するなどと主張して、退職手当未払分の支払いなどを求めた事案でした。
何が問題になったか?
本件では
- ①本件退職手当から本件差押命令に基づき差し押さえられた955万6257円を控除することが許されるか?
- ②本件合意書に基づく相殺合意は許されるか?
が問題となりました。
本判決のポイント
本判決は、労基法に定められた賃金全額払の原則は、使用者側が一方的に労働者の賃金を控除することを禁止する趣旨であり、使用者が労働者に対して有する債権と労働者の賃金債権を相殺することも禁止していることを示した上で、労働者が自由な意思に基づき相殺に同意した場合(同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するとき)は、労働者の同意を得てした相殺は、労基法に違反するものではない、としています。
本件では、相殺の合意がXさんの自由な意思に基づきなされたものであると判断されていますが、自由な意思に基づくか否かは、そのような合意が形成されるに至った経緯や過程、合意の内容などさまざまな事情が検討されます。
仮に合意が無効である場合には、使用者側による相殺は労基法に反する違法なものとなるため、注意が必要です。
弁護士にご相談ください
退職金や退職手当そのものは労基法などに定められたものではありません。
そのため、退職金等を支払うか否かはもっぱら会社に委ねられていますが、通常は、会社内で退職金制度を設けているケースがほとんどであると考えられます。
他方で、退職金制度は、就業規則その他の規程によって、支給基準や支給要件などを客観的に明らかにしておかないと、後に労使間で紛争が生じる恐れもあります。
この機会に、社内規程を点検し、退職金の支給に関して問題がないか確認しておくことがおすすめです。
退職金規程の書き方などについてお悩みがある場合には、ぜひ弁護士にご相談ください。
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