労働問題

海外勤務者に伴う退職の意思表示は無効?【アイウエア事件】

雇用とは、労働者が使用者に対して労働に従事することを約束し、使用者がこれに対して報酬を支払うことを約束することによって成立する契約です(民法623条)。
民法の雇用に関する定めは、私的自治の原則や契約自由の原則の下、(契約上)対等な立場にある使用者と労働者が労働・役務の提供と報酬の支払いをめぐる契約関係を自由につくり上げていくこと前提としています。
もっとも、使用者と労働者との間には交渉力の格差や情報の格差があることから、実質的には労働者側が不利な立場におかれてしまうこともあります。
そこで、使用者と労働者間の実質的な平等を実現する観点から、民法の雇用に関する規定は、労働基準法などにより修正が図られています。

他方で、雇用契約も“契約”であることに変わりません。
労働者は、退職の意思を会社に示すことによって雇用契約を解除することができます(民法540条1項)。
契約の解除とは、契約の効力を一方的に消滅させる意思表示であり、解除の意思表示をした場合には、これを撤回することができなくなります(民法540条2項)。

そのため、労働者は、会社に対して退職の意思を示した場合、原則として「やはり辞めるのをやめます」ということができません。

しかし、退職の意思表示が、労働者の真意に基づくものではない場合には、意思表示に瑕疵があったものとして無効になることがあります。

今回は、海外に転籍出向する労働者が示した退職の意思表示の有効性が問題となった事案を紹介します。

アイウエア事件・東京高裁令和4.1.26判決

事案の概要

本件は、Xさんが、平成25年9月末日をもって退職日とする退職願に署名押印したものの、退職の意思表示は不存在であって、または仮に存在していたとしても心裡留保もしくは虚偽表示により無効であって、同年10月1日以降もY社との雇用契約が継続しているなどと主張して、Y社に対し、未払割増賃金及びこれに対する遅延損害金の支払いなどを求めた事案です。

事実の経過

KさんとY社について

Y社は、教育に関するカリキュラム・教材の作成および販売業務などを目的とする株式会社あり、A塾という名称で学習塾を運営していました。
Xさんは、平成25年5月20日、Y社との間で雇用契約を締結し、同年6月1日に入社し、同月12日までは東京都内に所在する本社で勤務していました。
また、Xさんは、同月13日から平成29年1月26日まで、中国上海市に存在するA塾A1校において、上海に海外赴任している日本人の子女に対して英語や国語を教える講師として勤務していました。

Xさんの退職届

Xさんは、平成25年10月14日、Y社に対し、
「私事この度一身上の都合により、平成二十五年九月三十日をもちまして退職いたしたく、ここにお願い申し上げます」
と記載された同年9月1日付の退職願に署名押印して、提出しました。

Xさん
Xさん

退職届は提出しました

Y社の主張

このXさんの退職願の提出に関して、Y社は、Xさんが、Y社とは別法人のB有限公司(B社)への転籍に伴い、平成25年9月30日をもってY社を退職し、B社と新たに雇用契約を締結したものであると主張していました。
なお、B社は、中国国内法に基づいて設立された法人であり、Y社とは資本関係、人的関係のいずれも認められない会社でした。

Xさん、うちを辞めてB社に転職したんでしょ

Y社
Y社

訴えの提起

他方、Xさんは、平成25年9月末日をもって退職日とする退職願に署名押印したものの、退職の意思表示は不存在であって、または仮に存在していたとしても心裡留保もしくは虚偽表示により無効であって、同年10月1日以降もY社との雇用契約が継続しているなどと主張して、Y社に対し、未払割増賃金及びこれに対する遅延損害金の支払いなどを求める訴えを提起しました。

争点

本件においては、Xさんの退職の意思表示が不存在または心裡留保もしくは虚偽表示によって無効であるか否かなどが争点となりました。
なお、この他にも、Y社による解雇が無効であるか、本件解雇が不法行為に当たるか、不当解雇によりXさんに損害が生じているか、Xさんに支払われるべき未払賃金の額はいくらかなども争点となりましたが、今回の解説記事では省略します。

Xさん
Xさん

退職届を出しましたが、Y社を辞めることになるなんて思ってませんでした。
中国のB社へ片道切符というのはいくらなんでもひどすぎます!

第一審(長野地裁松本支部令和3年4月26日判決)の判断

Xさんによる退職の意思表示が不存在であるか

本件では、Xさんが、平成25年10月14日、Y社に対して、「私事この度一身上の都合により、平成25年9月30日をもちまして退職いたしたく、ここにお願い申し上げます。」との記載がある同月1日付けの本件退職願に署名押印し、提出していました。
そのため、第一審裁判所は、「これがY社との雇用契約を合意解約する旨の意思表示に当たることは明らかであり、後述する退職の意思表示に至るまでの諸事情に照らしても、退職の意思表示が不存在であるとのXさんの主張を採用することはできない。」と判断しました。

Xさんによる退職の意思表示が心裡留保によって無効であるか

▶︎雇用契約締結から退職願提出に至る経緯

まず、第一審裁判所は、XさんとY社との間の雇用契約の締結の経過や退職願を提出する至る経緯などについて次の事実を指摘しました。

  • 平成25年5月17日から同年6月20日までインターネット上に掲載されていた求人情報における募集要項には、中国上海市を勤務地とする海外・帰国生向けの学習塾の講師をY社の正社員として募集し、海外の現地法人への転籍があることを前提とした求人を行っているものの、福利厚生・待遇欄の各記載は、Y社のA海外赴任規定の内容と一致し、上海浦東校がY社の事業所であると読み取れる記載も複数見られること
  • Xさんは、平成25年5月20日、Y社との間で、雇用期間の始期を同年6月1日とする期間の定めのない雇用契約を締結し、同日から同月12日まで東京のY社本部に勤務し研修を受けた後、同月13日から上海浦東校で講師として勤務を開始したが、雇入通知書においては、就業場所欄で「その他 上海浦東校」にチェックが付され、就業時間や休日については「任地異動後は現地にしたがう」と手書きで付記されている一方、短期の出向期間を経て転籍となるまでの間の数か月の契約期間でY社との契約が終了することや、雇用期間の終期について特段の記載はなく、雇用契約の締結に当たって、上記の点及び転籍後の労働条件について、Y社がXさんに説明を行ったとは認められないこと
  • Y社経理総務部のDさんは、出向形態に関するXさんとのメールのやり取りの中で、在籍出向と転籍出向の相違点につき、海外赴任手当の支給、海外旅行傷害保険の保険料の負担、労働災害保険の海外特別加入等について言及した上で、「帰任の際、転籍社員は、在籍と変更します。一度、転籍したら、帰任(帰任とは、帰国して、勤務を続けていただくことです。)まで籍の変更はありません。」と説明し、これを受けてXさんは、最終的には転籍を選択したこと
  • Y社は、Xさんに対し、退職日欄等が空欄となっている退職願のひな型をメールで送付し、退職日欄は同年9月末日とした上で、記入日付欄には退職日より14日以上前の日付を記入するよう指示し、Xさんはこれらの指示に従い、退職日欄に「平成25年9月30日」と記入し、これに署名押印した上で、Dさんに対し、本件退職願をPDFファイルで送信して提出したこと
▶︎退職願の提出が契約を終了させる意思に基づくものか

その上で、第一審裁判所は、次のように述べて、Xさんの退職願の提出は、Y社との雇用契約を終了させる意思に基づくものではないと判断しました。

「転籍の法的性質は、企業間の労働契約上の地位の譲渡、又は転籍先企業との新たな雇用契約の締結を停止条件とする、転籍元企業との従前の雇用契約の合意解約であると解される。
本件では、募集要項や雇入通知書において、海外の現地法人への転籍があることについて言及されているものの、Y社との雇用契約が短期間で終了し、Y社とは業務提携関係があるにすぎない海外の現地法人との間で新たに雇用契約が締結されることが、Y社との雇用契約の前提となっているとまでは読み取れないし、同募集要項等に記載された雇用条件が、正社員であるという点を除き、新たな雇用契約の下でどの程度維持されるかも明確ではない。さらに、日本とは異なる海外の法制度の下で、どのような労働条件で海外の現地法人により雇用されることになるかは、Xさんの雇用契約上の地位に関わる重要な点であるが、Xさんは、本件退職願の提出に当たって、これらの点についてY社から説明を受けた形跡はなく(…)、かえって、Y社からは、転籍出向後もY社の海外赴任規定の適用を前提とした手当の支給等が行われることや、転籍出向後もY社への帰任が前提となっているかのような説明がされており、Xさんにおいて、Y社との雇用契約が存続するとの認識を有していたとしても不自然ではない。
これらの点(…)に照らすと、Xさんにおいては、確かに、転籍出向を自ら選択し、本件退職願に署名押印して提出しているものの、海外の現地法人との新たな雇用契約の締結を前提とした上で、真にY社との雇用契約を終了させる意思に基づいてこれを提出したものではないと認めるのが相当である。」

裁判所
裁判所

Y社の説明などを考慮すると、Xさんは本当にY社を退職するつもりで退職届を書いたとは認められませんね

▶︎Y社が悪意であったといえるか

また、心裡留保とは、意思表示の表意者が表示行為に対応する真意のないことを知りながらする単独の意思表示のことであり、かかる意思表示は原則として有効とされます(民法93条1項本文)。
しかし、真意でないことを相手方が認識している(悪意)または認識することができたとき(過失)場合には、心裡留保と評価される意思表示は無効とされます(同項ただし書)。
そこで、第一審裁判所は、Y社が、Xさんによる退職の意思表示が真意に基づくものでないことについて知っていたか、又は知らなかったことについて過失があるかについて検討しています。

「XさんがY社を真に退職し、Y社との雇用関係が一切失われていたとすれば、Xさんの給与の支給及び労務管理等につき、Y社の従業員に適用されるべき海外赴任規定や就業規則又は日本法に基づいて、Y社による決裁処理が行われていたことの合理的な説明がつかない。
そして、Y社がこのような処理を行っていたとの事実は、Xさんによる退職の意思表示が形式的なものにすぎず、同意思表示後も、XさんとY社との雇用関係が継続しているとの認識をY社自身も有していたことを示すものであって、その他(…)Y社とB及び上海浦東校との関わり方についての各事実を併せて考えると、Y社は、Xさんによる退職の意思表示が真意に基づくものでないことについて、悪意であったというべきである。」

裁判所
裁判所

Y社も、Xさんは本当にY社を退職するつもりで退職届を書いたわけではないことはわかってましたよね

▶︎まとめ

第一審裁判所は、以上の検討から、「Xさんによる退職の意思表示は、海外の現地法人との新たな雇用契約の締結を前提とした上で、真にY社との雇用契約を終了させるとの意思に基づくものではなく、かつ、Y社は、Xさんによる退職の意思表示が真意に基づくものではないことについて悪意であったと認められるから、Xさんによる退職の意思表示は、心裡留保によって無効である。」と判断しました。

本判決の判断

本判決は、概ね上記の第一審判決を引用して、一審判決の判断を維持しました。
よって、Xさんによる退職の意思表示は、無効であると判断されました。

ポイント

本件では、Xさんが上海勤務の際、転籍のためにY社に対して退職願を提出したことに関して、退職の意思表示の存否及びその有効性が問題となった事案でした。
裁判所は、本件退職願が提出されていることをもって、Xさんの退職の意思表示が不存在であるとはいえないと判断した一方、XさんとY社との間の雇用契約締結の経緯や退職届の提出に至る経緯などに照らせば、Xさんが、Y社との雇用契約を終了させるとの意思に基づいて退職の意思表示を示したとはいえないと判断しました。
その上で、Y社も、Xさんによる退職の意思表示が真意に基づくものではないことについて、悪意であったというべきであるとして、Xさんの退職の意思表示は、心裡留保により無効であると判断しました。

冒頭でも述べたとおり、労働者は使用者に対して退職の意思を示すことによって、使用者との間の雇用契約を終了することができます。
しかし、この意思表示は労働者の真の意思に基づくことが必要であり、本件のように、会社側の募集の経緯や説明の方法、労働者が退職の意思を示すに至った経緯などによっては、退職の意思表示が無効であると判断されることもあります。
よって、会社としては、退職願が労働者から提出され、これを受理するか否かを検討する場合、労働者の真摯な意思に基づくものであるか否かに注意することが必要です。

弁護士にもご相談ください

近年、退職の意思表示の有効性が争われるケースが増えています。

たとえば、近鉄住宅管理事件では、会社側が、労働者と電話をした際の労働者の発言によって退職合意が成立したと主張していたのに対し、「労働者にとって退職の意思表示をすることは生活に重大な影響を及ぼすものであり、口頭での発言をもって、直ちに確定的な退職の意思表示であると評価するかについては慎重な検討が必要であるところ、Aさん(労働者)がその後に勤務地の変更は可能だが勤務形態の変更は承服しかねる旨の書面を送付している等の事情に照らすと、Aさん(労働者)の発言をもって確定的な退職の申出があったと評価することは相当ではない。」として、会社側の主張が排斥されています。

また、栃木県・県知事(土木事務所職員)事件は、公務員であるAさんに対するB県の辞任承認処分の違法性が争われた事案ではありますが、かかる行政処分の前提となった退職願にかかる辞職の意思表示の有効性が問題となっており、Aさん(職員)が双極性感情障害のために傷病休暇中であり、辞職という決断を熟慮のうえでなし得るような病状であったとは言い難いとして、Aさん(職員)の退職願を自由な意思に基づくものとはいえないと判断されています。

このように、仮に労働者から退職の意思表示と考えられる発言があったり、退職願の提出があったりしたとしても、これが真の意思に基づくものではない場合には、退職の申出があったとはいえないと判断されたり、退職の意思表示が無効であると判断されたりすることがあります。
したがって、労働者の退職の場面では、会社として慎重な対応が求められることに留意し、少しでも不安な点がある場合には、事前に弁護士に相談することがおすすめです。